曲水の宴

(スライドショーの2~9枚目は下段の式次第に合わせたものです)


概要
 木漏れ日もやわらかな平安の庭を、ゆるやかに曲がりながら流れる一筋の遣水(やりみず、小川)の辺(ほとり)で、雅やかな曲水の宴を行っています。この曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事で、京都を代表する年中行事に数えられ、次のような次第で行われます。
 色とりどりの平安時代の装束を身につけた7名の歌人(男性5名は狩衣[かりぎぬ]、女性2名は小袿[こうちき]を着用)が席に着くと、1人ずつ歌題を確認します。そして歌人が遣水の傍らの座に着くと、中央の舞台で白拍子の舞がしずしずと披露されます。次いで2人の水干(すいかん)姿の童子が朱塗りの盃にお神酒を注ぎ、羽觴(うしょう、鴛鴦[おしどり]の姿を象った盃台)に載せ、川上から次々に流します。琴の音が響く中、歌人は歌題にちなんだ和歌を詠み、それぞれ短冊にしたためます。そして、和歌を書き終えた歌人は、目の前に流れて来た羽觴を取り上げ、盃のお神酒をいただくのです。全員が和歌を詠んで盃を飲み終えると童子が短冊を集め、これら7首の和歌は、平安時代さながらに節をつけて神職によって朗詠され、神様に奉納されます。
 こうして、新緑の中 約1時間にわたって王朝の雅な世界が再現されます。なお、城南宮の曲水の宴で用いる鴛鴦を象った羽觴は、吉田元陳が描いた「曲水の宴図屏風」(城南宮所蔵)や、京都御所の杉戸絵などに見られる形です。

歴史
 清流にのぞんで詩歌を作り盃を巡らす曲水の宴は、古代、中国大陸や朝鮮半島でも行われました。書道の手本として名高い『蘭亭序』は、永和9年(西暦353年)3月3日に王羲之が会稽山の蘭亭で修禊の儀式をして催した曲水の雅会で、人々が詠じた漢詩に寄せた序文です。このように水ぬるむ春先に清流や浜辺に赴き水を浴びて身を清め、不祥を祓い無病息災を願う風習は大陸にも古代日本にもあり、顕宗天皇元年(485年)3月上巳に天皇のお出ましを仰いで曲水の宴が行われたと『日本書紀』に記されています。奈良時代から平安時代中期にかけて宮中の年中行事として正式に行われた曲水の宴は、その後、藤原道長や藤原師通などの貴族が自邸で行うようになります。そして、戦乱の世となり長く途絶えましたが、曲水の宴への関心は高く、江戸時代を通じて内裏の襖絵に和漢の曲水の宴が描かれています。また江戸時代半ばの享保17年(1732年)に8代将軍徳川吉宗が故実を精査して曲水の宴を江戸城で再興、その5年後の元文2年(1717年)に中御門上皇が仙洞御所で行われました。

ご案内
 ●4月29日(昭和の日) 午後3時よりおよそ50分間、神苑内、平安の庭で斎行。
 ●事前申込制(3月上旬に詳細を掲載予定です)

式次第
 参宴者参進
  時刻 社務所前庭に整列 本殿へ向う
 神前列拝
  本殿正面庭上に列立 拝礼、終って平安の庭会場に向う(道楽を奏す)
 会場整列
  歌人・朗詠者・楽人等 庭上に著座

 一、歌題拝見
    所役 歌題を歌人に進む
    歌人 拝見一揖す
 一、水辺著座
    歌人 各々遣水の座に著き、詠歌の用意をなす
     白拍子の舞  楽人 楽を奏し今様をうたう
 一、流觴曲水
    童子 盃に酒を満たし羽觴を流す
 一、一觴一詠
    歌人 各々最初の羽觴を見送り和歌をよみ短冊にしたたむ
 一、神酒拝戴
    歌人 流水の羽觴をとり盃をいただく
    童子 歌人の短冊をあつめ供物案に捧ぐ
 一、披講(和歌朗詠)
    朗詠者 披講の席に進み朗詠す

 参列者退下


曲水の宴(4月29日 15時~)の観覧は、事前申込制で行います。 
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