建造物など

 

菊水若水(手水舎)
 城南宮の「菊水若水」の水は霊験あらたかで、江戸時代の初め、霊元法皇が「菊水若水」を飲まれると痛みが治った、という記録があり、お百度を踏んで祈願して水を持ち帰る習慣も伝わります。また、東大寺のお水取りの香水は、若狭の遠敷川からこの「菊水若水」の下を通り、二月堂の若狭井に達すると伝えられています。伏見の名水として知られ、毎年春先に行なわれる伏見名水スタンプラリーには多くの人々が参加しています。


東の鳥居・城南離宮扁額
 城南宮の東入り口に当たる石の鳥居に掲げられている扁額の字は、「有栖川流書道」を大成された有栖川宮幟仁(たかひと)親王の染筆です。
 鳥居の柱の刻銘から文久元年(1861年)9月に兵庫津の北風氏がこの鳥居を寄附したことが知られます。北風家は司馬遼太郎の『菜の花の沖』にも登場する兵庫の廻船問屋で、城南宮の氏子である竹田村の長谷川家から貞忠が養子に入って家を継いでおり、その御礼に氏神の城南宮に鳥居を寄進したと考えられます。

西の鳥居・城南離宮扁額
 西の鳥居は氏子の寄進によって文久元年(1861年)に建てられ、扁額の字は関白九条尚忠の書です。
 慶応4年(1868年)正月3日の鳥羽伏見の戦いの際は、この西の鳥居と鳥羽街道を結ぶ参道に薩摩の軍勢が4門の大砲を据え、旧幕府軍を迎え撃ったのです。
 「城南離宮」は、白河上皇や鳥羽上皇が院政の拠点として営んだ離宮(鳥羽殿、鳥羽離宮とも言う。)の名称で、江戸時代にはこれを城南宮の社号のように用いました。


本殿
 本殿・前殿・向拝(こうはい)・翼廊(よくろう)からなる素木(しらき)造りの社殿は、城南宮独自の優美な佇(たたずまい)です。屋根の緩やかな勾配や軒端(のきば)の反り、棟の両端の獅子口と呼ばれる瓦、斗栱(ときょう)、懸魚(げぎょ)、蟇股(かえるまた)、そして餝金具に至るまで、平安時代後期の建築様式で昭和53年に造営されました。




随神像
 城南宮の随神像は、右大臣、左大臣と称される江戸時代様式のものでなく、平安時代の随神像の姿を再現しています。向って右の像は鬚をたくわえて口を開き、左の像は若者で口を閉じています。共に目をいからせ、ご神前に外敵が近づくことがないよう降魔退散の役割を果たしています。いわゆる衣冠束帯像で、材質は桧材の一木造りで、頭から台座までを彫出し、わずかに両肩から袖を含めて別材を矧(は)ぎ付けています。
 *ご本殿に安置されています。
  中にお入りいただくことはできません。
 *写真撮影はご遠慮ください。
神楽殿
 平安時代の貴族の邸宅である寝殿造りを模した御殿で平成8年に建てられました。桧の素木(しらき)造りで、化粧屋根裏といって天井を設けず屋根の裏の垂木(たるき)を見せる伝統的な工法で建築されています。予約制で会社の発展祈願のご祈祷や結婚式に用いられます。また、表の舞台では、折々に巫女神楽が奉納され、自由に拝観できます。




一寸法師と城南宮
  昔話で親しまれる一寸法師は、お椀の舟に乗って都を目指し、鳥羽の津に着いた、と江戸時代の御伽草子に書かれています。この鳥羽の津は城南宮の南にあり、淀川を通って都へ行き来する船の港になっていました。御伽草子の一寸法師は、都の貴族に仕えて数年後、お姫様と一緒に鳥羽の津から船出したところ大風に遭い、奇妙な島に流されます。そして襲いかかって来た鬼を退治した一寸法師は、不思議な力を持った打ち出の小槌を手に入れ、背を高くし、金銀財宝を打ち出して都に帰り、末永く幸せに暮らしたということです。一寸法師は、城南宮が鎮まる鳥羽の地を通るたびに、大きな幸せに近づいて行ったのです。